背景
セロファンは、1908年(明治41年)にスイス人によって発明された。その後、フランスのラ・セロファン(当時)がこの特許と技術を取得して工業的にセロファンの製造を始め、1912年に初めて市場に送り出した。その2年後、アメリカにおいてデュポン社(当時)が特許の実施権を得て、これに呼応して欧州各国にセロファンメーカーが設立された。1935年(大正15年)には、デュポンによってヒートシールが出来る硝化綿系の防湿セロファンが開発され、翌年にはその製造が開始されるに及び、世界的に大きく発展していった。日本においても、1928年に東京セロフアン紙がセロファンの生産を開始したが、戦争で壊滅状態になった。
戦後、1945年(昭和20年)11月、東京セロフアン紙が早くも生産を再開している。1948年の用途は、輸出用30%、真田用35%、輸出包装用18%などであった。1949年にはセロファンのひねり包装機が開発されている。
1950年、セロファンの品質改善を目途して,セロファン工業会と東都セロファン同業会の共催で「セロファン印刷展」が日本橋三越で開催された。印刷方式はグラビアが主で透明で美麗な包装材料としてセロファンが注目された。また、このころからセロファン、アルミ箔、ポリエチレンフィルム等の軟包装用材料に対する小型で低い張力で印刷できる包装用グラビア特殊印刷機の開発が盛んに行われた。
1951年6月には、わが国最初の塩酢ビ系の防湿セロファンが大日本セロファンの高槻工場で製造された。防湿セロファンは、防湿性とヒートシール性をもつフィルムとして包装に広く用いられるようになった。印刷はグラビアよる裏面印刷が主である。印刷に伴いスリッター,製袋等の加工技術も急速に進歩し、セロファン発展への足掛かりを掴んだ。
1953年には、日本専売公社がタバコ「富士」を防湿セロファンで包装したのを初め、1956年に森永のキャラメル箱の包装、他にヒネリ包装、煙草のオーバーラップ包装などに単体で広く使われるようになった。森永のキャラメルのオーバーラップ包装は、国産の包装機であった。
ポリセロの誕生
ポリセロは、このような背景のもとで開発されたものである。1954年(昭和29年)に、味の素㈱が小袋に最初に用いたといわれている。これは、凸版印刷が納入したものであり、当初セロファンとポリエチレンをドライラミで張り合わせたものであったが、ドライラミ用のポリエチレンフィルムがインフレーション法で生産されていたため偏肉の問題があり、1959年に同社の板橋工場に設置された押出しラミ法に切り替えられた。ポリエチレンをエクストルーダーでフィルム状に押し出して直接セロファンと貼り合わせる方法で、精度、コストともに一段と向上することになった。
この軟包材の加工に欠かせない押出しラミネート加工法は、1945年にアメリカのデュポン社により開発された。1955年頃には第二次大戦中にレーダーの絶縁材料としてポリエチレンの生産を始めたイギリスの1C1社がポリエチレンの量産体制を確立し、電気特性、防水・防湿性、熱封かん性に優れた従来の常識を突き破る包装材料を作り出したというニュースが入ってきた。1956年には、アメリカのイーガン社から、セロハンやアルミ箔などに押出しラミネートする機械を日本のフィルム加工会社数社が輸入している。
セロファンとポリエチレンとのラミネートフィルムはポリセロと呼ばれ、フィルムの腰、透明性‘防湿性、ヒートシール性において、両者の特徴を生かしたすばらしい機能をもつものであったので、1959年頃からインスタントラーメンの包装に採用されると、そのほかの食品包装にも広く普及し始め、やがてポリセロブームをもたらした。その結果、普通セロファン、防湿セロファンともに飛躍的に急伸長した。特に防湿セロファンは、従来の単体用に、即席ラーメン、即席ジュースなどインスタント食品のラミネート用が加わり、食品部門の比率が大きく伸長した。即席ラーメンが初めて発売された時は防湿セロファンを使用したポリセロであった。
ちなみに、PVDCコートセロファンは、1959年に国産化された。1966年には、ボイル殺菌可能なPVDCコートセロファンが開発されている。
別の開発の流れとして重包装袋からの例がある。ターポリン紙を生産していたメーカーが、アメリカではクラフト紙にポリエチレンフィルムをラミネートしヒートシールしているということがわかって、この情報をもとに開発に取り組んだ。ポリエチレン1トンの値段は、当時、実に100万円であった。最初の入荷量は4.5kg程度で、ポリエチレンが高価すぎることから包装材に利用する研究を行った。分子量が高いのでソルベントに溶かしたが、コーティングができず、エクストルージョンコートの機械がどうしても必要であることが分かり、1955年に上述のイーガン社に出向いて購入を決めた。この間、同社の技術陣は独自の機械製作を試み、ポリエチレンコーターとポリエチレンインフレーション機を製作し、1956年に国産1号機が完成した。同年10月には、イーガン社の機械が到着したが、同社の機械はイーガン社製のものとくらべて遜色のない出来栄えであり、その後、実生産機として活躍を続けたとのことである。同社は、ポリセロを漬物や佃煮類の商品を対象に「濡れない、湿気ない、腐らない」をセールスポイントに用途開拓を開始した。表面印刷もまだ定着していなかったので、ラベルは別に印刷して貼り付けていた。
このようにみると、ポリセロの開発は順調であったように見えるが、その後のプアスチックフィルムにもつながる様々な問題を克服しなければならなかった。その一つが味噌袋のボイル殺菌である。ボイル時のポリエチレンの剥離を防ぐために、柔軟剤の種類と量、並びに結晶化度の特性因子が接着の改善に有効なことが解明され、アンカーコート剤の研究と相まって、この問題を解決している。また、押出しラミネートの接着性を改善するためのオゾン処理なども開発された。
この軟包装において一世を風靡したポリセロも、やがてプラスチックフィルムのラミネート品に置き換わられていくが、その技術は、これらのプラスチック製品に引き継がれている。
(大須賀:元ユニチカ、日本食品包装協会顧問)